鹿ヶ谷を経た池袋にて平成十九年の晩秋、「http://secretservice.blog.shinobi.jp/」のプレゼントより開局中。
2002年のテーマ「手」
わたくしどものようなメゾンとしては、手を褒め称えると自画自賛だといわれるで しょうか?
職人にとって、もちろん手は一番の道具です。
けれども手は単に肉体的作業に限りません。
手は精神的行動もするものです。
手の動きにはいろいろあり、
たとえば顔に向かってさしのべたり、何かを与えるときには開いたり、
あるいはまた額を撫でたり、小鳥の体を温めてやることもあります。
美を作り上げ、傑作を生み出したり、オーケストラを指揮するのも手です。
友情を伝えたり、あるいは伝わってきたりもします。
なんて素晴らしい交流方法でしょう。
大都会では、長いこと見られなかった光景がくりひろげられていました。子供たちは道路のまんなかで遊び、自動車でゆく人は車をとめて、それをニコニコとながめ、ときには車をおりていっしょに遊びました。あっちでもこっちでも人びとは足を止めてしたしげにことばをかわし、たがいのくらしをくわしくたずねあいました。仕事に出かける人も、いまでは窓辺のうつくしい花に目をとめたり、小鳥にパンくずを投げてやったりするゆとりがあります。お医者さんも、患者ひとりひとりにゆっくり時間をさいています。労働者も、できるだけ短時間にできるだけたくさん仕事をする必要などもうなくなったので、ゆったりと愛情をこめて働きます。みんなはなにをするにも、必要なだけ、そして好きなだけの時間をつかえます。いまではふたたび時間はたっぷりとあるようになったからです。
モモはまるで、はかり知れないほど宝のつまったほら穴にとじこめられているような気がしました。しかもその財産はどんどんふえつづけ、いまにも彼女は息ができなくなりそうなのです。出口はありません! だれも助けに入ってくることはできず、じぶんが中にいることを外に知らせるすべもありません。それほど深く、彼女は時間の山にうずもれてしまったのです。
ときには、あの音楽を聞かず、あの色を見なければよかったと思うことさえありました。それでも、もしこの記憶を消しさってしまおうと言われたとしたら、彼女はどんな代償をもらおうと、やはりいやだとこたえたことでしょう。たとえその記憶の重みにおしひしがれて、死ななければならないとしてもです。なぜなら、今彼女が身をもって知ったこと──それは、もしほかの人がわかちあえるのでなければ、それを持っているがために破滅してしまうような、そういう富があるということだからです。──
…
時間をケチケチすることで、ほんとうはべつのなにかをケチケチしているということには、だれひとり気がついていないようでした。じぶんたちの生活が日ごとにまずしくなり、日ごとに画一的になり、日ごとに冷たくなっていることを、だれひとり認めようとはしませんでした。
でも、それをはっきり感じ始めていたのは、子供たちでした。というのは、子供と遊んでくれる時間のある大人が、もうひとりもいなくなってしまったからです。
けれど、時間とはすなわち生活なのです。そして生活とは、人間の心の中にあるものなのです。
人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそって、なくなってしまうのです。
日常生活がたいていいつも 最もリアルなもの として知覚されているのは、
それがそのなかで行為することで てごたえのある結果 が生じる現実であり、
他の大多数の人間と 共有している現実 だからである。
それは
現実としてのアクセントがいちばん強く、
いちばん長続きする現実であり,
そのため他のすべての経験領域は、
いわばその中の「島」のようにして存在する。
至高の現実からどれかの限定された意味領域に移動して、
また元にもどるとき、
そのつどある種のショックとして経験される。